1号と2号の独白
2002年9月20日この日の走り書きの一部より引用↓
嗚呼、良いんだろうか、こんなんで。こんなんってのはさぁ、今のこの状態だよ。傍目から見ると賃金を得る為の活動を何もしていないこの状態。でもこうやって書いてる喜びがあんじゃん?それで良いのかなぁ。それだけで良いのかなぁ。ぶっちゃけ、夢のまた夢にも成り兼ねない話で。でもこうしてる私が居て。それは即ち、書く事が好きとかいうレベルじゃ無く、書く事ぐらいしか出来ないって事なんだろうなぁ。他は何をやらせても駄目なんだよ。多少うまくこなせたとしてもやっぱり駄目なんだよ。しっくり来ないんだよ、自分自身がさぁ。
って云うか今、さっき起きて携帯でメールなんかしてて、でも「このまま延々と続きそうだな、面倒臭そうだな」とか思えて来たので切り上げて、で、ネット入ってつっまんねー事ついついしちゃったりしててさ、んで、かーさんの置いてったカルボナーラ食って、そこでふと気付く。
「んー、これから何しよっかな?何したら良いんだ?何したいのかなぁ」
そこで、始めた事といったらこんなつまらない文章書く事だった、という訳だ。
もうね、書く事が惰性に成りつつあるんだよ。まだまだ外は夕刻だが、今日の日記もさっさと書いちゃいたい位で。惰性というより、書く事しかやる事が無いっつーか、書かないと落ち着かないんだよなぁ。馬鹿馬鹿しい事でも、些細な事でもさぁ、書かないと落ち着かないんだよ。強迫神経症的かなぁ?
…どうしてかくも文体が「だるだるモードの語り言葉」になってしまうのだろう。
本来なら私はこのように、ある程度文章として体裁の整ったものを書ける筈だ。それがここ最近、脱力するとすぐに誰かに延々と語り掛けているような文体になってしまう。気を引き締めないと、書き言葉として余計な「語り」の部分を排除した文章が書けない。何故だ。一体私は誰に向かって語っているのだ?
「それは、私だ」
…2号か。そうか、2号に向かって語り掛けていたのか。ということは、現在こうやって思い付いた事を延々と書き連ねている「1号と2号の合体物」である私は、2号が文脈や文体、言葉選びを担当し、内容を文章に変換する作業もまた2号が受け持っている筈なのに、こうしてキーボードを叩き、動物的に感覚で思考してしまう1号が優勢的に前面に出て来ているという訳か。
「私、1号!でも文章を書く事は出来ないの。私が出来るのは、感じる事と、動く事だけー。これも2号が代筆してるんだ。私が文章を書く時に協力出来るのは、レトリックスやロジックスは抜きに、感じたままに感じた題材を提供する事と、こうやって実際にキーボードを叩く事だけだよ。それだけー」
「私は2号だ。どうやら1号の中の勝手なイメージでは、私は1号の右肩にちょこんと座っている事になっているらしい。簡易に要約すると、1号が『本能』の部分を担当しているとすると、私は『理性』の部分を担当している、というような事になる。私は思考する事は出来るが、1号のように『感じる』事は出来ない。だから文章を書く際も、インスピレーションや思考内容といった『感覚』の部分は1号に頼っている。なおかつ私は実際にキーボードを叩く事も出来ないので、そういった直接的な作業もまた、1号に委任している。文章を書く際、私に出来るのは、理知的にひたすら文章を構築する事と、1号の言語化されていない感覚的な思考内容を言語化する事だけだ。私達は2体合わせてようやく『私』という一個の人間となる。文章を書く時に限らず、いつだってそうだ。しかし『私』は解離性同一性障害などではない。ただ単に、自己の精神・身体活動の根源となる『人格』に役割分担が存在する事を自覚してしまっただけだ。『私』自身はもちろんのこと、私達1号と2号もまた、それぞれの役割分担を自覚している。万人に、『私』の言うところの1号と2号が居る。ただ多くの人が、それを自覚していないだけだ」
…1号と2号に各自勝手に独白させてみたけど、「もぅダメー、眠いよー」by1号。
嗚呼、良いんだろうか、こんなんで。こんなんってのはさぁ、今のこの状態だよ。傍目から見ると賃金を得る為の活動を何もしていないこの状態。でもこうやって書いてる喜びがあんじゃん?それで良いのかなぁ。それだけで良いのかなぁ。ぶっちゃけ、夢のまた夢にも成り兼ねない話で。でもこうしてる私が居て。それは即ち、書く事が好きとかいうレベルじゃ無く、書く事ぐらいしか出来ないって事なんだろうなぁ。他は何をやらせても駄目なんだよ。多少うまくこなせたとしてもやっぱり駄目なんだよ。しっくり来ないんだよ、自分自身がさぁ。
って云うか今、さっき起きて携帯でメールなんかしてて、でも「このまま延々と続きそうだな、面倒臭そうだな」とか思えて来たので切り上げて、で、ネット入ってつっまんねー事ついついしちゃったりしててさ、んで、かーさんの置いてったカルボナーラ食って、そこでふと気付く。
「んー、これから何しよっかな?何したら良いんだ?何したいのかなぁ」
そこで、始めた事といったらこんなつまらない文章書く事だった、という訳だ。
もうね、書く事が惰性に成りつつあるんだよ。まだまだ外は夕刻だが、今日の日記もさっさと書いちゃいたい位で。惰性というより、書く事しかやる事が無いっつーか、書かないと落ち着かないんだよなぁ。馬鹿馬鹿しい事でも、些細な事でもさぁ、書かないと落ち着かないんだよ。強迫神経症的かなぁ?
…どうしてかくも文体が「だるだるモードの語り言葉」になってしまうのだろう。
本来なら私はこのように、ある程度文章として体裁の整ったものを書ける筈だ。それがここ最近、脱力するとすぐに誰かに延々と語り掛けているような文体になってしまう。気を引き締めないと、書き言葉として余計な「語り」の部分を排除した文章が書けない。何故だ。一体私は誰に向かって語っているのだ?
「それは、私だ」
…2号か。そうか、2号に向かって語り掛けていたのか。ということは、現在こうやって思い付いた事を延々と書き連ねている「1号と2号の合体物」である私は、2号が文脈や文体、言葉選びを担当し、内容を文章に変換する作業もまた2号が受け持っている筈なのに、こうしてキーボードを叩き、動物的に感覚で思考してしまう1号が優勢的に前面に出て来ているという訳か。
「私、1号!でも文章を書く事は出来ないの。私が出来るのは、感じる事と、動く事だけー。これも2号が代筆してるんだ。私が文章を書く時に協力出来るのは、レトリックスやロジックスは抜きに、感じたままに感じた題材を提供する事と、こうやって実際にキーボードを叩く事だけだよ。それだけー」
「私は2号だ。どうやら1号の中の勝手なイメージでは、私は1号の右肩にちょこんと座っている事になっているらしい。簡易に要約すると、1号が『本能』の部分を担当しているとすると、私は『理性』の部分を担当している、というような事になる。私は思考する事は出来るが、1号のように『感じる』事は出来ない。だから文章を書く際も、インスピレーションや思考内容といった『感覚』の部分は1号に頼っている。なおかつ私は実際にキーボードを叩く事も出来ないので、そういった直接的な作業もまた、1号に委任している。文章を書く際、私に出来るのは、理知的にひたすら文章を構築する事と、1号の言語化されていない感覚的な思考内容を言語化する事だけだ。私達は2体合わせてようやく『私』という一個の人間となる。文章を書く時に限らず、いつだってそうだ。しかし『私』は解離性同一性障害などではない。ただ単に、自己の精神・身体活動の根源となる『人格』に役割分担が存在する事を自覚してしまっただけだ。『私』自身はもちろんのこと、私達1号と2号もまた、それぞれの役割分担を自覚している。万人に、『私』の言うところの1号と2号が居る。ただ多くの人が、それを自覚していないだけだ」
…1号と2号に各自勝手に独白させてみたけど、「もぅダメー、眠いよー」by1号。
コメント