日付無視・2002年9月13日作成文書?【詳細は9月14日分の日記参照】
2002年9月12日部屋には地図が転がっているばらばらにばらばらに。ばらばら。もう、少し嫌だ。この仕事に地図は必須だ。少し寒い。窓が開いているのかと思ってカーテンを開けて確かめたけれど閉まっていた。どうして寒いんだろう。半袖のパジャマの所為だろうか生地が麻だからだろうか寒い。でも私は今書きたいから書き続けたいから、気温とか体温なんてどうでも良い。死ぬ迄何も無くたって良い。でも良く考えたら死ぬ迄何も無いという事は有る筈が無くって、もし死ぬ迄何も無いとしたら今の私もこうして文章を書いている私も、存在しない。それは変だ。おかしい。矛盾してる。死ぬ迄何も無いという事は、概念というか視点を変えれば所謂「中身の無い人生」を送ったという事にも成り得るし、本当に生命すら存在しないという意味にも成り得る。私の人生には「中身」があっただろうか。いや、これから「中身」が有るんだろうか。人生の中身とかそういう概念はとても抽象的で、一言で括ってしまうと大変な事になる。大変な事というのは意味の履き違えで、意味という概念すらまた抽象的なのだから入れ子式にどんどんどんどん抽象的になって行く。まず意味とは何だろう。其処から始めるのが手っ取り早そうだ。意味。意味とは、字面の通り解釈すると「意」つまり?…辞書を引いてみる。い。い。い。角川国語辞典。もう随分古い。心。考え。わけ。意味。…したい気持ち。意志。意思ではなく意志なんだ志すんだ。「思い」の意は無いんだ。「意」という言葉の意を確かめるのに意という言葉を使わなくてはならないなんて、とても不便だ。訳が判らなくなる。日本語は役に立たない。日本語に限らず何処の国の言葉だってきっと役に立たない。こういう場合、自分で言葉を作るしか無いんだろうか?私が言葉を知らな過ぎるだけ?いや、「意」という言葉の意を確かめようと思えば、やはり意という言葉を使う他無さそうだ。だって他にどんな語句が適している?真意と書けばまた意という字が入ってしまう。外字を作ってしまおうか。字を、漢字を作ってしまおうか。いや面倒だ。その字の意を問われたら、また意という言葉を使わなければならない。余計面倒になる。言葉を作った人は凄い。字を作った人はそんなに凄くない。字は元来象形文字から発展したものだから、まず物の形と音を、意に沿うように合わせただけだ。言葉を作った人は誰だろう?いや言葉を作った人なんてきっといない。社会が、文明が発展して行く中で造語や外来語、訳語、スラング、スラングが日常的に一般的に使用されるようになったもの等は沢山有るけど、初めて言葉を考え出した人、初めて言葉という概念を考え出した人なんてきっといない。最初は、そう鳴き声だったんだ。叫びだったんだ。仲間に危険を知らせる為、威嚇する為、性行為即ち交尾の誘いの為に、そう生きる為に!本能故に、言葉は生まれたんだ。食べる為、眠る為、安全を確保する為、子孫を残す為。子孫を残す、これがきっと生物に与えられた本能の極意なんだろうなぁ。即ち、種の保存。種の保存という言葉は既に形骸化していて、言葉だけが一人歩きしている感が有る。だから止めよう。この言葉はもう捨ててしまおう。錆びた言葉、外殻だけがやけにくっきりとしているのに中身はもう既に風化してしまっている言葉なんて不要だ。要らない。要らないものはさっさと捨ててしまおう。じゃなきゃ新しいものが何も生まれない。古いものばかりに固執してしまうと言葉が飽和する。新しい言葉、新しいもの、私はそれらを生み出せるんだろうか紡ぎだせるんだろうか。そもそもどうして新しいものを作り出そうとしているんだろう?旧態依然は嫌いで旧態依存はもっと嫌いとは私が以前よく書いていた言葉だ。よく書いていたから、この言葉も既に空洞化しかけているという事になってしまう。この言葉も捨ててしまおう。まず、私は、新しい言葉、新しいものを新しい文章を、紡ぎ出したい。ここから始めよう。何故そう切望しているんだろう?何故古いものを捨てて新しいものを作ろうとしているんだろう?それは、それはきっと「自分が読みたいから」だ。「自分が新しいものを見たいから」だ!そう、何故私は書くのか、何故書きたいのか、そう問われたらきっと、「自分が読みたいから」書くと答えるんだ!人に読んで貰いたいという気持ちは無いのか?いや、勿論それはある。大いにある。寧ろ人に読んで貰う事が快感だ。でも、でも。もし誰かの目に留まる機会が全く無いようなものでも、私は書くと思うし、実際に書いた経験が何度も有る。この文章は自分で読む為だけに書いているのか?いや、きっと母や病院の先生、親しい人に見せたいという気持ちは、初めから有ったと思う。無かったと言ったら嘘になる。こんな脈絡も無い文体も整っていない文章を、好んで読むような人はごく少数だと思う。本当に「見せる為」の文章を書こうと思えば、もっと体裁の整ったものは書ける。それはプロの作家の書くような何処に出しても恥ずかしくないような文章とは言い難いけど、少なくとも「見せる為」の文章を書けと言われたらこんなものより数倍もまともな体裁の整った文章を書ける自信は有る。では何故こんな脈絡も文脈も無い文章を書いているのか?発作的にさっき書きたくなったから、それだけか?何処かに思い付いた事をただひたすら書きたいという気持ちは無かったか?きっとあった。でも書けなかった。無気力症状に襲われていたからだ。いや、そうなのか?理由はそれだけか?そもそも無気力症状という言葉も私が文章を書く際何度も使ってしまっているからして、既に空洞化が進んでいるという事になる。この言葉も捨ててしまおう。私は、何もしたい事が無かった。日記は書いていたが、半ば己に書く事を義務付けるようにして、書き方を忘れてしまうのが恐くて、見せる為の文章を書く力が衰えてしまうのが恐くて、書いていた。涙が溢れそうになって来た。私から書く力を奪ってしまったら、残るものなんて殆ど無い。涙が溢れて来た。そう、私の持つ唯一の技能は、きっと書くことしか無い。涙が止まらない。写真撮影や加工にも手を出したり、音楽を作りたいという気持ちもあるし、もっと絵が上手くなりたい、歌が上手くなりたいという気持ちも有る。でも、本当に私の持ち得る技能とは、きっとそれらじゃない。もっと上手い人が星の数ほど居る。文章だってそうだ。私がどんなに力を注いで書いたって、まだまだプロに追い着けるようなレベルじゃない。でも、それでも私にはきっと、書く事しか無い。それ以上他に得意な事が何も無い。だから書けなくなるのが恐い。日記でも、人に見せる為の文章を沢山書いてきた。でも、きっとあれは私が本当にやりたかったことじゃない。あんなものはレトリックスとロジックス、今までの経験即ち慣れ、そして今まで読んだプロの書いた文章を手本に、書けと言われればいくらでも書ける。でも、私がやりたかったのはそんな事じゃない。
*9月13日分の?に続く→
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