目覚めると、そこは別世界だった。
なにも妄言を吐いている訳ではない。急に抑鬱状態に陥っていたのだ。

「鬱」の世界というものは、それこそ別世界と呼ぶにふさわしい。
よく抑鬱状態時の思考パターンの事を「思考の色メガネ」と形容したりするが、まさに思念に何かぼんやりとした感じで着色されたように感ぜられるのだ。自室や、窓から見える風景、そして自分という存在そのものに関しても。

もっとも私の場合、ここ最近慢性的に無気力感の強い抑鬱状態にあったので、色メガネというより思考に靄がかかった状態と表現した方が適切であろうか。

昨日は帰りに少しばかり彼氏の家にも寄り、あんなに楽しい時間を過ごした筈だったのに何故だろう。
生活に急激な変化があった訳でもないし、疲労困憊している訳でもない。なのに目覚めると、突如として「鬱」という不可解な世界に放り込まれていたのだ。こんなに突如として重度の抑鬱状態に陥ったのは初めてかも知れない。

私は元来アレルギー体質で、アトピー等アレルギー系の病気の殆どを患っているのだが、ごく軽い喘息持ちでもある。現在はほんの少し息苦しくなる程度まで症状は軽くなっているが。

ここ数日間、軽度ではあるが発作の頻度が増しているとは感じていた。その発作が、こともあろうに昨日彼の家で出てしまったのだ。しかも数ヶ月ぶりの重めの発作だ。

苦しそうな私を見て、彼が心配して早目に家まで送ってくれた。帰宅後すぐに吸入を済ませると、発作は一応の落ち着きをみせた。

どうも私の場合、精神的に不安定になるとアレルギーも悪化するらしく、自分ではさほど不安定な状態であるとは考えていなかったのだが、どうやら無邪気に彼氏と遊んだりしていてもどこか心にわだかまりがあったようだ。その「わだかまり」とは何であるのかと問われれば、私自身理解に苦しむのだが。

今日は診察日であり、私は公費負担制度を受けているのでその更新日でもあった。薬も丁度飲み終えてしまったものが大半だ。何としてでも病院には行かなければならない。

しかし、何もする気力が起きないのだ。身体を動かすだけでも億劫に感じてしまう。私の中の「魂」の部分を、何処かに置き忘れたような状態だった。

取り敢えず、病院には行かなくては。
しかし、我が家と病院との距離は時間に換算すると自転車で10分掛かるか掛からないかといった程度のものなのに、それすら遠い道のりに感ぜられてしまう。
今日は自転車をこげない、ましてや歩く事なんて出来ない。自分の精神状態と身体に訊くと、そんな返答が返って来た。

本当は嫌だったが、父に送って貰うしかないと思った。しかし父はまだ仕事で忙しい時間帯だったし、どうせまた嫌な顔をして「アッシー君じゃないんだ」などと言うだろう事は容易に想像がついた。

どうしよう、何をしたらいいんだろう、何が出来るんだろう、何かしなくては。

ぼんやりした頭でぐるぐると思考をめぐらせていると、無性に誰かに救いを求めたくなった。誰かの声が、聞きたくなった。

…彼氏に、電話しよう。

母もまだ仕事が残っていて忙しいだろうし、職場の電話でゆっくり話す事なんて出来そうもない。
それに、私は思った事を書き留めておく時は、書く前に他者に多くを話してしまうと文章に変換する作業がないがしろになってしまうのだ。最近はこの日記に多くの日常記録・思考の痕跡をしたためているので、母と内面的な深い話をする事もめっきり減ってしまった。なので母は、私が先日自殺未遂をしでかそうとした事ですら知らない。今、母に全てを話す気力は無い。

…彼なら、親身になって話を聞いてくれるかも知れない。

彼はこの日記もおおよそ読んでいる筈だ。それに彼には、母に話していない事も沢山話している。そして何より、無性に彼の声が聞きたくなった。

彼に電話を掛けた。

「…あのね、さっき、起きたんだ。そしたら、すっごく、鬱だったの。…なんでか判んないんだけど、鬱だったの。…それだけなんだけどね。…こんな事で電話しちゃってごめんね」

彼は親身になって話を聞いてくれた。そして優しい言葉を掛けてくれた。更に、病院まで送ってくれるという。
数十分も経たぬうちに、彼はうちの前まで来てくれた。更に、「待合室まで付き添って欲しい」という私の我儘まで聞いてくれた。

診察を受け、先生にじっくりと話を聞いて貰う。
初めは何から話して良いのか判らずにオロオロしていたが、取り敢えず、今日起きたら何故か急激に抑鬱状態に入っていた事から少しずつ話し始めた。そして先日の自殺未遂の事も話した。他にも生活リズムが上手く整えられない事や、彼氏に迷惑ばかり掛けてしまっていて自己嫌悪に陥る事、更には最近少し食欲が戻って来て、固形物も摂る事が多くなって来たので体重が1?増えてしまい、少しショックを受けている事などを話した。自殺未遂の件は、睡眠薬とアルコールによる自殺を図った事を話してしまうと睡眠薬の量を減らされてしまう可能性があるという考えから、あくまで自殺を図ろうとしたという事だけ話した。
半ば睡眠薬依存症状態で、昼夜問わず飲んだりスニッフ(粉状にして鼻から吸う事)している私にとって減薬や薬種変更・処方ストップは致命的だ。逆に精神的にまいってしまいそうだ。
この日記も、ビールと睡眠薬を飲み、一錠だけスニッフして書いている。以前にも書いたが、私は睡眠薬が無くともおおよその場合、眠りは浅いが殆ど問題無く眠れてしまうのだ。「眠れない」と訴え続けて現在ではかなりの量の睡眠薬を処方して貰っているが、まったく嘘八百もいいところだ。先生には申し訳なく思うが、何せ睡眠薬を飲むと邪魔な理性が軽く飛び、ネットをしていても面白いし、文章もすんなりと出て来るのだ。

先生はそんな私にも事細かにアドバイスをくれた。
抗鬱剤を、今までは一日2錠ずつ飲むように処方されていたものが一日4錠に倍量した。
またしても診察室で泣いてしまった。

私の主治医は中年の女性で、今までかかった精神科医の中で最も付き合いが長く、最も良い先生だと思っている。通常、精神科の診察といえども10分〜15分程度で終わるのが普通だが、この先生は予約が立て込んでいない限り最長1時間程も相談に乗ってくれるという半ばカウンセラーのような先生だ。

最近の日記の一部をプリントアウトして持って来れば良かったかも知れない、と思った。思っている事を瞬時に言葉で表すという行為は真意を汲み取って貰いにくい。私は自己の内面にある思念を言語化するのに、「熟成」させる時間が必要なのだ。
今日のように重度の抑鬱状態でない限り基本的に人と話をしたりメッセンジャーやチャットしたりするのは好きだが、こうして思考の痕跡を整理する為の文章などとそれらとは、決定的な違いがあるのだ。

話し言葉やチャットのログは、そのまま時間と共に流れていってしまう。そして己の思念や身の周りの出来事を話し言葉で表すと、その話した内容が知らず知らずのうちに記憶されてしまい、のちに文章として表す時に、話した内容の焼きまわしみたいな雰囲気になってしまう事があるのだ。

話し言葉は一時的なものだ。それを書き言葉に持ち込んでしまうと、ラジオの脚本みたいになってしまう。
いや、それは決して悪いことでも何でもない。寧ろ、「人に見せる為の文章」としてはそちらの方が一般的であろう。

しかし私は、話し言葉である程度まとまった文章を書く事に対して躊躇いを感じざるを得ない。

それは何故かというと、話し言葉は一時的なものなので、後程読み返した際に当時何をしていたのか、何を考えていたのかという事が判りづらくなってしまうからだ。

私は恐らく、忘れるのが恐いのだ。だから、書く。

他にも書く理由は自己表現欲求の充足など色々あるのだが、正直言ってしまうと、もっと大きく、かつマヌケな理由がある。

面倒臭いのだ、何度も同じ事を多数の人に話すのが。

書く方が面倒じゃないか、とご指摘を受けてしまいそうだが、実際細密に私がどんな体験をし、何を考えたか口で説明する方が難易度が高いのではなかろうか。
話すという事は、話す相手が居る訳だから、こちらばかり一方的に延々と話す訳にもいかない。
一応遠い夢は文筆業だ。書く事は苦痛ではない。

だから私はよく旧知の友人や初対面の人に会った場合、こちらの「過去」に関することがらを訊ねられたりすると、「あー、その辺は図書館に私の本あるから時間ある時にでもそっち見た方が早いわ」「ま、詳しくは日記読んで」などと言ったりしている。診察室に自分の書いたものを持ち込む事もしばしばある。


で、診察が終わろうとしたその時、ちょうど公費負担制度書類更新の為に先生に診断書を書いて貰わなければならなかったので、何気なく
「私って何の病気なんでしょうか?」
と訊いてみた。
先生は少し考え込んでから、抑鬱状態や神経症、睡眠障害、気分障害、それに少し躁鬱の気もあるという意味の事を言った。

はっきりと病名を言われたのは初めてだったので、逆に何だかすっきりした。

その後薬局へ行き、更に喘息の吸入スプレーが無くなりかけていたので彼に内科まで送って貰ったりして、今日は彼に病院のハシゴに付き合せてしまってすまなかったなぁ、と思っている。

本当はまだまだ書きたい事があるのだが、またしても文字数オーバーだ。どうも最近長文傾向が強まって来ていて困る。

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