限りなく小さく、また限りなく大きな存在としての「人間」
2002年8月26日星を見るのは好きだ。以前はよく、自室の窓から蓄光式の星座盤や双眼鏡、赤いセロファンを貼った懐中電灯を小脇に抱えて、毎日のように星空を眺めていた。
我が家は地方都市といえどもかなり街中な方なので、さほど沢山の星が見える訳ではないのだが、それでも光度等級の大きな星なら見える。それに星を見るという行為は、精神的にも新鮮な気持ちに立ち返らせてくれるし、何よりそれが恒常化してしまうと自分でもだんだん星に詳しくなっていくのが実感出来、なかなか面白いのだ。
双眼鏡はごくベーシックなものだし、星座盤に至っては小学生の頃に理科の教材として配布されたものをそのまま保存してあっただけのものだ。それほど天体に詳しい訳でもない。でも、星を見るという事は私にとってなかなか興味をそそる行為ではある。もっとも、最近は以前のように頻繁に星空を眺める事もめっきり減ってしまったが。
懐中電灯に赤いセロファンを貼るのは、懐中電灯のじかの灯りだと眩しすぎて眼が光に慣れてしまい、星が見えづらくなるからだ。この知識は何かの本で得たものだと思うが、何の本だったかは記憶に無い。詳しい資料を持たないので私自身細密に解説するのに苦しむが、赤色の光というのは光の中で一番波長が長いのだ。逆に一番波長の短いのが紫色の光で、光というのはそもそも電磁波の一種であるから、その電磁波のうち可視光線、すなわち人間の目で見える光である。その中で一番波長が長いのが赤色、一番波長が短いのが紫色という事だ。
赤外線とは赤色より波長が長く人間の目には見えない光の事で、赤外線よりもっと波長が長いのが遠赤外線だ。遠赤外線は波長が長いので遠くまで届き、もともと電磁波の一種であるからして、これを利用した炊飯器でご飯がおいしく炊けたりするという訳だ。携帯電話がレンタルビデオ店などで出口の防犯ブザーに引っ掛かってあらぬ誤解を受けた経験のある方もいると思うが、あれは携帯から出ている電磁波が同じ電磁波を用いて動作している防犯ブザーに反応してしまった為だ。
そんな訳で、赤色はとかく可視光線の中で一番波長が長いので、どういう訳か感光しにくいのである。だから写真現像用の暗室にも赤色のライトが備え付けられているという訳だ。
余談だが、トンネル内の灯りがオレンジ色なのは、オレンジという色が赤色に近く、遠くまで見通しが効きやすい為だ。何故完全な赤色でないかというと理由は色々あるのだが、主なものとして完全な赤色ではかえって暗過ぎて危険だからという事が挙げられる。あと、赤色は心理的に不安感情を煽る場合が多いので、完全な赤色にしてしまうと不安感から事故に繋がりやすくなるという理由もある。
すっかり理科雑学話になってしまった。本題に入ろう。
今日は彼氏と星空を見に行って来たのだ。
その場所はとかく綺麗に星が見えるらしく、前々から行こうと話していた。
道中は「今日こそ星見日和」と言わんばかりの晴天だった。だんだん街の灯りが遠ざかってゆくに従って、星もちらほらと見えて来た。
到着してみると、まさに満点の星空だった。彼に言わせてみれば今日は月も満月に近いし、まだ8時なので街の灯りがこちらにも届いて来ているので、新月の10時頃に来れば「怖いくらい」星がよく見えるのだそうだ。
それでも普段は街中の星空しか見ない私だ。充分過ぎるほどよく星が見えた。
暫くは二人で虫の声や川のせせらぎをBGMに、星空に見入っていた。やがて星図盤を取り出し、実際の星の位置と照らし合わせてみる。懐中電灯に貼る赤いセロファンをどこかになくしてしまっていたので多少瞳孔の開閉が忙しいことになってしまったが、蓄光式の星座盤は懐中電灯のおかげでちゃんと光ってくれた。
「あ、コンパス忘れちゃった。どっちが東でどっちが西で、どっちが北でどっちが南?」
きょろきょろと夜空を見回す私に、彼が一つの星を指差して教えてくれた。
「あれが、北極星。だからあっちが、北」
彼は星に詳しい。おおよその有名な星座の名前や形、一等星の名前など私なんかよりよっぽど頭に入っている。
星座盤と実際の星々をいちいち照らし合わせて喜んでいると、さっきまであんなに晴れていた空の雲行きがだんだん怪しくなって来た。
西方から風が吹いているようだ。雲も西方からどんどん流れて来る。しまいには星なんて殆ど見えなくなってしまったので、諦めて一旦車の中へ戻って再び晴れるのを待つ事にした。
暫く車の中でとりとめのない話をしたり、音楽を流していたりした。そうしているうちに、どれくらい時間が経っただろう。
「あ、晴れてる!」
私が言った。
気付けば文字通り雲は「雲散霧消」していた。そこにはまた満天の星空が広がっていた。
彼の車は素敵だ。私は車には詳しくないが、彼のFXは車内の色調を彼の好きなブルーで統一してあって、オーディオも凝っている。そしてこの日何より素敵だと思ったのは、サンルーフが付いているという事だ。
車内を見上げるだけでも星は少し見えるが、サンルーフを開けて、二人でそこから上半身を乗り出して飲み物を車の屋根に置き、星座盤を眺めつつ再び星空に見入った。
そうこうしているうちに、一台の車がこちらへと向かって来た。彼によればこの場所は星空を見るにはもってこいの「穴場スポット」らしく、他にも星を見に来る人達がかなりいるらしい。
その車はこちらへ向かおうとしていた様子だったが、サンルーフから思い切り上半身を乗り出している「先客」の我々を見てか、暫く周囲をうろうろしてから引き返していった。
星空は見ず知らずの他人と見るものではない。何か落ち着かないのだ。先程の車の主も同じような事を思ったのだろう。
先に来てしまっていて良かったと思った。そして、殆どお金は掛けていないけれど、なんだか自分達がひどく贅沢をしているような気分になった。
そして、私達がサンルーフから上半身を乗り出して優雅に星空を見ているという事を思うと、先程の車の主に対してほんの少し優越感をおぼえた。
こんな時ぐらい優越感に浸ってもいい。満点の星空を二人占めなんて、ちょっと素敵な響きじゃないか。
また雲行きが怪しくなって来て、いくら待ってもいっこうに天気が回復しそうもないので引き返す事にした。
人間なんてちっぽけな存在だ。広大な宇宙に比べれば小さな点にも及ばないほど限りなく小さな存在だ。
いや、地球ですらほんの小さな点に過ぎない。そのちっぽけな地球で今日も、ちっぽけな人間達がいさかいや争い、殺戮を繰り返し、泣いたり、笑ったり、感動したり、悩んだり、苦しんだりしている。
そして自分達がちっぽけな存在であるとは考えもせず、さも自分には力がある、自己の内面には未だ知れない領域があると信じてやまず、日々「自分探し」にいそしんでいる人々がいる。
何も私はエコロジストやヒューマニストを気取りたい訳ではない。むしろ、理で物事を考えようとしてしまうたちだ。それでも科学的視野から見たって、やはり人間は小さいのだ。
いや、逆に科学的視野から見ると、人間は限りなく大きな存在であるとも言える。生物学的に人間の身体を分子、原子、素粒子レベルのミクロな世界観で見ていくと、そこはまさに広大な宇宙にそっくりだ。
物理学的な面だけではなく、人間の思考、思念、思想、感情といったものはそれこそこの星に暮らす人々それぞれの中に、数字には換算できないほど無数に散在・混在しているのだろう。内面的世界から見ても、人間は限りなく大きい。
人間は限りなく小さく、同時に限りなく大きな存在でもあるのだ。
人間とはどういった存在であるのか。これは哲学の主な探究対象でもあるが、実に曖昧模糊な問いだ。こういった抽象的な問いには、「これだ」という正答は無いに等しい。でも曖昧な問いを立てて曖昧な答を導こうとするのが哲学であり、私にとってはそこが面白く感ぜられたりもするのだ。
だから、人間は「小さいし、大きい」なんて矛盾した答を導いてしまっても構わないと思う。むしろ正答など無いのだから、どちらも正しいという事にしてしまっても良いではないか。
そう考えた方が思考に柔軟性が出て来て、物事を柔軟に捉えられるというものだ。
恋愛や人間関係、その他小さな事でくよくよ悩んでいるのなら、人間なんてちっぽけな存在なのだから、その悩みも苦しみもちっぽけな脳味噌が作り上げた脳内伝達物質の働きによるもので深刻に捉える必要なんて無いんだ、と考えてしまえば気分もラクになる。
逆に、「自分はちっぽけな存在だ、自分一人この世界から消えても世の中何も変わりはしない」と思い悩んでいるのなら、その身体ひとつ取ってみてもそこには無限の宇宙が広がっているんだ、内面世界にだって、数字には換算出来ないほどたくさんの「想い」があるじゃないか、と考えてしまえば良いのだ。
上記の二つの文章は、一見して矛盾しているかのように見える。
いや、実際、矛盾しているのだ。そもそも「文章」や「言葉」なんて単なる伝達手段に過ぎないのだから、矛盾の塊でも、正確に書き手の意図が伝わらなくても、それが当たり前なのだ。
もちろん私の書く文章だって、探せばいくらでも矛盾点が浮き彫りになって来る事うけあいだ。
それを承知の上で、書いている。矛盾を恐れては文章など書けない。
話の方向が幾分かズレてしまったが、この続きは文字数オーバーになってしまうので明日の分の日記に詳述するとしよう。
我が家は地方都市といえどもかなり街中な方なので、さほど沢山の星が見える訳ではないのだが、それでも光度等級の大きな星なら見える。それに星を見るという行為は、精神的にも新鮮な気持ちに立ち返らせてくれるし、何よりそれが恒常化してしまうと自分でもだんだん星に詳しくなっていくのが実感出来、なかなか面白いのだ。
双眼鏡はごくベーシックなものだし、星座盤に至っては小学生の頃に理科の教材として配布されたものをそのまま保存してあっただけのものだ。それほど天体に詳しい訳でもない。でも、星を見るという事は私にとってなかなか興味をそそる行為ではある。もっとも、最近は以前のように頻繁に星空を眺める事もめっきり減ってしまったが。
懐中電灯に赤いセロファンを貼るのは、懐中電灯のじかの灯りだと眩しすぎて眼が光に慣れてしまい、星が見えづらくなるからだ。この知識は何かの本で得たものだと思うが、何の本だったかは記憶に無い。詳しい資料を持たないので私自身細密に解説するのに苦しむが、赤色の光というのは光の中で一番波長が長いのだ。逆に一番波長の短いのが紫色の光で、光というのはそもそも電磁波の一種であるから、その電磁波のうち可視光線、すなわち人間の目で見える光である。その中で一番波長が長いのが赤色、一番波長が短いのが紫色という事だ。
赤外線とは赤色より波長が長く人間の目には見えない光の事で、赤外線よりもっと波長が長いのが遠赤外線だ。遠赤外線は波長が長いので遠くまで届き、もともと電磁波の一種であるからして、これを利用した炊飯器でご飯がおいしく炊けたりするという訳だ。携帯電話がレンタルビデオ店などで出口の防犯ブザーに引っ掛かってあらぬ誤解を受けた経験のある方もいると思うが、あれは携帯から出ている電磁波が同じ電磁波を用いて動作している防犯ブザーに反応してしまった為だ。
そんな訳で、赤色はとかく可視光線の中で一番波長が長いので、どういう訳か感光しにくいのである。だから写真現像用の暗室にも赤色のライトが備え付けられているという訳だ。
余談だが、トンネル内の灯りがオレンジ色なのは、オレンジという色が赤色に近く、遠くまで見通しが効きやすい為だ。何故完全な赤色でないかというと理由は色々あるのだが、主なものとして完全な赤色ではかえって暗過ぎて危険だからという事が挙げられる。あと、赤色は心理的に不安感情を煽る場合が多いので、完全な赤色にしてしまうと不安感から事故に繋がりやすくなるという理由もある。
すっかり理科雑学話になってしまった。本題に入ろう。
今日は彼氏と星空を見に行って来たのだ。
その場所はとかく綺麗に星が見えるらしく、前々から行こうと話していた。
道中は「今日こそ星見日和」と言わんばかりの晴天だった。だんだん街の灯りが遠ざかってゆくに従って、星もちらほらと見えて来た。
到着してみると、まさに満点の星空だった。彼に言わせてみれば今日は月も満月に近いし、まだ8時なので街の灯りがこちらにも届いて来ているので、新月の10時頃に来れば「怖いくらい」星がよく見えるのだそうだ。
それでも普段は街中の星空しか見ない私だ。充分過ぎるほどよく星が見えた。
暫くは二人で虫の声や川のせせらぎをBGMに、星空に見入っていた。やがて星図盤を取り出し、実際の星の位置と照らし合わせてみる。懐中電灯に貼る赤いセロファンをどこかになくしてしまっていたので多少瞳孔の開閉が忙しいことになってしまったが、蓄光式の星座盤は懐中電灯のおかげでちゃんと光ってくれた。
「あ、コンパス忘れちゃった。どっちが東でどっちが西で、どっちが北でどっちが南?」
きょろきょろと夜空を見回す私に、彼が一つの星を指差して教えてくれた。
「あれが、北極星。だからあっちが、北」
彼は星に詳しい。おおよその有名な星座の名前や形、一等星の名前など私なんかよりよっぽど頭に入っている。
星座盤と実際の星々をいちいち照らし合わせて喜んでいると、さっきまであんなに晴れていた空の雲行きがだんだん怪しくなって来た。
西方から風が吹いているようだ。雲も西方からどんどん流れて来る。しまいには星なんて殆ど見えなくなってしまったので、諦めて一旦車の中へ戻って再び晴れるのを待つ事にした。
暫く車の中でとりとめのない話をしたり、音楽を流していたりした。そうしているうちに、どれくらい時間が経っただろう。
「あ、晴れてる!」
私が言った。
気付けば文字通り雲は「雲散霧消」していた。そこにはまた満天の星空が広がっていた。
彼の車は素敵だ。私は車には詳しくないが、彼のFXは車内の色調を彼の好きなブルーで統一してあって、オーディオも凝っている。そしてこの日何より素敵だと思ったのは、サンルーフが付いているという事だ。
車内を見上げるだけでも星は少し見えるが、サンルーフを開けて、二人でそこから上半身を乗り出して飲み物を車の屋根に置き、星座盤を眺めつつ再び星空に見入った。
そうこうしているうちに、一台の車がこちらへと向かって来た。彼によればこの場所は星空を見るにはもってこいの「穴場スポット」らしく、他にも星を見に来る人達がかなりいるらしい。
その車はこちらへ向かおうとしていた様子だったが、サンルーフから思い切り上半身を乗り出している「先客」の我々を見てか、暫く周囲をうろうろしてから引き返していった。
星空は見ず知らずの他人と見るものではない。何か落ち着かないのだ。先程の車の主も同じような事を思ったのだろう。
先に来てしまっていて良かったと思った。そして、殆どお金は掛けていないけれど、なんだか自分達がひどく贅沢をしているような気分になった。
そして、私達がサンルーフから上半身を乗り出して優雅に星空を見ているという事を思うと、先程の車の主に対してほんの少し優越感をおぼえた。
こんな時ぐらい優越感に浸ってもいい。満点の星空を二人占めなんて、ちょっと素敵な響きじゃないか。
また雲行きが怪しくなって来て、いくら待ってもいっこうに天気が回復しそうもないので引き返す事にした。
人間なんてちっぽけな存在だ。広大な宇宙に比べれば小さな点にも及ばないほど限りなく小さな存在だ。
いや、地球ですらほんの小さな点に過ぎない。そのちっぽけな地球で今日も、ちっぽけな人間達がいさかいや争い、殺戮を繰り返し、泣いたり、笑ったり、感動したり、悩んだり、苦しんだりしている。
そして自分達がちっぽけな存在であるとは考えもせず、さも自分には力がある、自己の内面には未だ知れない領域があると信じてやまず、日々「自分探し」にいそしんでいる人々がいる。
何も私はエコロジストやヒューマニストを気取りたい訳ではない。むしろ、理で物事を考えようとしてしまうたちだ。それでも科学的視野から見たって、やはり人間は小さいのだ。
いや、逆に科学的視野から見ると、人間は限りなく大きな存在であるとも言える。生物学的に人間の身体を分子、原子、素粒子レベルのミクロな世界観で見ていくと、そこはまさに広大な宇宙にそっくりだ。
物理学的な面だけではなく、人間の思考、思念、思想、感情といったものはそれこそこの星に暮らす人々それぞれの中に、数字には換算できないほど無数に散在・混在しているのだろう。内面的世界から見ても、人間は限りなく大きい。
人間は限りなく小さく、同時に限りなく大きな存在でもあるのだ。
人間とはどういった存在であるのか。これは哲学の主な探究対象でもあるが、実に曖昧模糊な問いだ。こういった抽象的な問いには、「これだ」という正答は無いに等しい。でも曖昧な問いを立てて曖昧な答を導こうとするのが哲学であり、私にとってはそこが面白く感ぜられたりもするのだ。
だから、人間は「小さいし、大きい」なんて矛盾した答を導いてしまっても構わないと思う。むしろ正答など無いのだから、どちらも正しいという事にしてしまっても良いではないか。
そう考えた方が思考に柔軟性が出て来て、物事を柔軟に捉えられるというものだ。
恋愛や人間関係、その他小さな事でくよくよ悩んでいるのなら、人間なんてちっぽけな存在なのだから、その悩みも苦しみもちっぽけな脳味噌が作り上げた脳内伝達物質の働きによるもので深刻に捉える必要なんて無いんだ、と考えてしまえば気分もラクになる。
逆に、「自分はちっぽけな存在だ、自分一人この世界から消えても世の中何も変わりはしない」と思い悩んでいるのなら、その身体ひとつ取ってみてもそこには無限の宇宙が広がっているんだ、内面世界にだって、数字には換算出来ないほどたくさんの「想い」があるじゃないか、と考えてしまえば良いのだ。
上記の二つの文章は、一見して矛盾しているかのように見える。
いや、実際、矛盾しているのだ。そもそも「文章」や「言葉」なんて単なる伝達手段に過ぎないのだから、矛盾の塊でも、正確に書き手の意図が伝わらなくても、それが当たり前なのだ。
もちろん私の書く文章だって、探せばいくらでも矛盾点が浮き彫りになって来る事うけあいだ。
それを承知の上で、書いている。矛盾を恐れては文章など書けない。
話の方向が幾分かズレてしまったが、この続きは文字数オーバーになってしまうので明日の分の日記に詳述するとしよう。
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