自殺未遂顛末記
2002年8月25日自己の内面世界について思いを馳せる時、いつも想うのは、私の中には「自分が大嫌いな自分」と「自分が大好きな自分」が同居しているという事だ。
以前、多少なりとも健康的に学校に通っていた頃などは、「自分が大好き」な方向に偏りがちであったと思う。
しかし高校を休学・退学して本格的に精神科に通い始めるにつれて、どんどん「自分が嫌いだ」と思うようになって来てしまった。
では何故現在、「自分大嫌いな自分」と「自分大好きな自分」が混在しているのか。
私は元来創作活動を得意としており、高校を休学・退学して以来時間に余裕が出来た事もあって、本格的にそれらにのめり込むようになった。そうして書いた文章を人に読んで貰ったり、本を出したり、写真や芸術・音楽活動に興味を持つようになってから、「自分にはひょっとして人並み以上の自己表現能力があるのではないか」というナルシズムが己を支配し始めた。
ところが、高校を辞めるとそこにはやはり、空虚な「恒常的な日曜日」が待っているだけだ。初めのうちはそれまで蓄積されていた自己表現欲求で創作活動にも精を出し、半ば興奮状態でそれらに取り組んでいた。しかし「恒常的な日曜日」が長く続くうちに、家にも引きこもりがちになり、他者とのコミュニケーションも希薄なものとなっていった。そんな状況下で自己表現活動への意欲が湧くはずもない。何しろ「表現したい自己」が薄っぺらなものになってしまったのだから。自己表現への意欲とは、新鮮な体験をして、新鮮な空気を吸って、他者とのコミュニケーションを取って、そうして初めて生まれて来るものなのだ。
空虚な「日曜日」の期間が続くのに比例するかのように、私は抑鬱状態に陥っていった。そして自信を失っていった。私には人並み外れた能力なんて何も無い、私はこのままうだつの上がらぬ高校中退者としてまともな職にもつけず、敗北の人生を送るだけだ。そう考えていた。
精神科で抗鬱剤を処方され、一時的に抑鬱状態から抜け出す事もあったが、逆にそれが単なる「鬱」から「躁鬱」へと私を導いたきっかけとなったようにも思う。以来私は現在に至るまで、抑鬱状態と躁状態のサイクルを繰り返し続けている。
しかし上記の記述には、何故私が「自信喪失」から「自分大嫌い」に至ったのかという経移が無い。「自分大嫌い」になった理由の一つには次のようなものが考えられる。
躁と鬱を繰り返し、しまいには自殺念慮まで出現し、抑鬱状態の時には電話も取らずメールも返さず、何事においてもだらしなく、自分のしたい事に熱中してしまい周りが見えなくなってしまう。調子が悪いと言っては約束事をキャンセルし、睡眠リズムの自己管理が出来ず約束の時間に遅刻してしまう。でも、こんなどうしようもない人間にも懇意にしてくれる人達が居る。関係を断ち切らず、温かく見守って、心配すらしてくれる人達が居る。そんな大切な人達が居る限り、私は彼等・彼女達に迷惑を掛けぬよう努めなければ申し訳が立たない。しかし、気付けばやはり迷惑を掛けてばかりいる。その度に、自分は駄目な人間だと思い、深い自己嫌悪に陥る。そしてそれが顕著な時には、「自殺」という言葉が脳裏をかすめる。
大切にしていきたい、これ以上無いという位大好きな彼氏が出来たという事も、意外にも「自分嫌い」を悪化させる原因となってしまった。嫌われたくない、迷惑を掛けたくない、彼の前ではいつも明るく振る舞っていたい、そんな気持ちが深まるにつれて、逆に迷惑を掛けてしまった時の自己嫌悪がいっそう激しいものとなってしまったのだ。
昨日は彼に大変な迷惑を掛けてしまい、自殺念慮がピークに達し、服薬自殺を図ろうとした。昨日の日記が文脈もへったくれも無く、ただ最後に残す為だけの文章として感情の赴くままに抽象的な表現を多用したものとなっているのはその為だ。昨日の日記を書いた後にも更に多量の睡眠薬を服用し、この世界から消えてしまおうと考えていた。いや、服薬自殺は未遂率が高い事など重々承知だ。単に現実逃避したかっただけなのかも知れない。意識が朦朧とすれば余計な事を考えずに済むし、そのまま眠りに入るだろうから、いわゆる「寝逃げ」をしてしまうのも良いだろうと考えたのだ。
しかし、午後3時頃、私は目覚めてしまった。大量の睡眠薬をアルコールと共に飲んだのでぼんやりとはしていたし、鬱々とした気分は抜けていなかったが、ごく普通に目覚めてしまったのだ。
目覚めて暫くは、この鬱々とした気分のまま何をして良いのか判らず、ただベッドの上で寝転がったり起き上がったりしていた。そして、取り敢えず何かしようという意欲がほんの少し湧いて来たので、ベッドの上に積んであった赤坂真理の本をぱらぱらと斜め読みした。
そうこうしているうちに、彼氏から電話が掛かって来た。彼からの着信時は着メロもイルミネーションの色も変えてあるし、開閉通話も設定している。昨日の事を謝ろうという気持ちもあったのだが、平素から彼からの電話には反射的に出てしまうので、今日も何だか判然としない気分のままではあったが反射的に出てしまった。
昨晩遅く、睡眠薬を多量に服用した後、殆ど意識朦朧とした状態で彼にメールを送っていた。文章は短く、しかも件名や本文も抽象的な表現で差出人名称も変えていたので、ウイルスの類と勘違いされて開かれぬまま削除されるのが関の山だろうと思っていた。それでも良い、どうせ死ぬのだからそんな後味の悪いメールが彼の受信フォルダに残っている方が彼としても気分が悪いだろう、とも考えていた。
ところがメールアドレス自体は変えていなかったので、彼は私からのメールを自動的に私専用のフォルダに振り分ける設定をしていたらしく、ウイルスや「電波女」と勘違いされる事もなく、開いて読んだという事だった。
文面から事情を察したらしく、昨日の日記等を読んだらしい。そうして私が自殺を図ろうとしている事も概ね推測がついたらしく、心配して電話を掛けてきてくれたようだった。
最初は彼の問い掛けに短く答える事しか出来なかった。そして彼が優しい言葉を掛けてくれるうちに、涙が止まらなくなって来た。私はまだ、「死ねなかった」「こんなに迷惑ばかり掛けているんだから私みたいな人間はさっさと消えた方がいいんだ」などと言っていたが、彼が「死のうなんて考えちゃ駄目だよ」「もう昨日の事は水に流したよ」などと言ってくれたので、少しずつ、浄化されていった。彼が私を元気付けようとしてか冗談を言って来たので、思わず笑ってしまった。
笑った。死のうとしていた人間が、笑った。
私は、浄化された。
隔月刊漫画誌『ガロ』に、雨宮処凛の日記が連載されている。彼女は『自殺のコスト』という、自殺に関わる費用について詳述した本を出しているのだが、2002年4月号の連載ページにはその本に関わる記述が少し掲載されている。
それによると、睡眠薬「ハルシオン」の致死量は150万錠、同じく睡眠薬「レンドルミン」の致死量は200万錠だそうだ。薬価に換算するとハルシオンで死ぬには3000万円、レンドルミンだと7940万円も掛かると書いてある。私は公費負担制度を受けているので掛かりつけの精神科で処方されたものを貯めればそんなに金は掛からないだろうが、それにしても凄い金額と量だ。とてもじゃないがそんなに貯められないだろうし、仮に貯められたとしても何百万錠も一気に飲めるはずもない。
私が昨日自殺未遂を図ろうとして飲んだ睡眠薬の中に前述のレンドルミンも含まれていたが、レンドルミンに限定しても飲んだのはせいぜい十錠くらいだ。これではとてもじゃないが死ねない。
『完全自殺マニュアル』にも書いてあるが、自殺には首吊りが一番だ。死体もそんなに汚くないし、苦しみもなく一瞬で意識を失って手っ取り早く死ねる。ロープ等が無くても、hideのようにタオルをドアノブに引っ掛けるだけでも首は吊れる。今すぐにでも死にたいという人は首を吊ろう。死体発見拒絶派は樹海や山奥などに行けば良い。服薬自殺は未遂に終わる事が多いし、最悪の場合「死ぬほど」苦しい地獄の胃洗浄を受ける事にもなりかねない。
そこまで決意の固まっていない自殺志願者には、私のように「寝逃げ」して現実逃避してしまうという方法もお勧めだ。自殺未遂で人生リセットしよう。生きる気力も湧いてくるかもしれない。
以前、多少なりとも健康的に学校に通っていた頃などは、「自分が大好き」な方向に偏りがちであったと思う。
しかし高校を休学・退学して本格的に精神科に通い始めるにつれて、どんどん「自分が嫌いだ」と思うようになって来てしまった。
では何故現在、「自分大嫌いな自分」と「自分大好きな自分」が混在しているのか。
私は元来創作活動を得意としており、高校を休学・退学して以来時間に余裕が出来た事もあって、本格的にそれらにのめり込むようになった。そうして書いた文章を人に読んで貰ったり、本を出したり、写真や芸術・音楽活動に興味を持つようになってから、「自分にはひょっとして人並み以上の自己表現能力があるのではないか」というナルシズムが己を支配し始めた。
ところが、高校を辞めるとそこにはやはり、空虚な「恒常的な日曜日」が待っているだけだ。初めのうちはそれまで蓄積されていた自己表現欲求で創作活動にも精を出し、半ば興奮状態でそれらに取り組んでいた。しかし「恒常的な日曜日」が長く続くうちに、家にも引きこもりがちになり、他者とのコミュニケーションも希薄なものとなっていった。そんな状況下で自己表現活動への意欲が湧くはずもない。何しろ「表現したい自己」が薄っぺらなものになってしまったのだから。自己表現への意欲とは、新鮮な体験をして、新鮮な空気を吸って、他者とのコミュニケーションを取って、そうして初めて生まれて来るものなのだ。
空虚な「日曜日」の期間が続くのに比例するかのように、私は抑鬱状態に陥っていった。そして自信を失っていった。私には人並み外れた能力なんて何も無い、私はこのままうだつの上がらぬ高校中退者としてまともな職にもつけず、敗北の人生を送るだけだ。そう考えていた。
精神科で抗鬱剤を処方され、一時的に抑鬱状態から抜け出す事もあったが、逆にそれが単なる「鬱」から「躁鬱」へと私を導いたきっかけとなったようにも思う。以来私は現在に至るまで、抑鬱状態と躁状態のサイクルを繰り返し続けている。
しかし上記の記述には、何故私が「自信喪失」から「自分大嫌い」に至ったのかという経移が無い。「自分大嫌い」になった理由の一つには次のようなものが考えられる。
躁と鬱を繰り返し、しまいには自殺念慮まで出現し、抑鬱状態の時には電話も取らずメールも返さず、何事においてもだらしなく、自分のしたい事に熱中してしまい周りが見えなくなってしまう。調子が悪いと言っては約束事をキャンセルし、睡眠リズムの自己管理が出来ず約束の時間に遅刻してしまう。でも、こんなどうしようもない人間にも懇意にしてくれる人達が居る。関係を断ち切らず、温かく見守って、心配すらしてくれる人達が居る。そんな大切な人達が居る限り、私は彼等・彼女達に迷惑を掛けぬよう努めなければ申し訳が立たない。しかし、気付けばやはり迷惑を掛けてばかりいる。その度に、自分は駄目な人間だと思い、深い自己嫌悪に陥る。そしてそれが顕著な時には、「自殺」という言葉が脳裏をかすめる。
大切にしていきたい、これ以上無いという位大好きな彼氏が出来たという事も、意外にも「自分嫌い」を悪化させる原因となってしまった。嫌われたくない、迷惑を掛けたくない、彼の前ではいつも明るく振る舞っていたい、そんな気持ちが深まるにつれて、逆に迷惑を掛けてしまった時の自己嫌悪がいっそう激しいものとなってしまったのだ。
昨日は彼に大変な迷惑を掛けてしまい、自殺念慮がピークに達し、服薬自殺を図ろうとした。昨日の日記が文脈もへったくれも無く、ただ最後に残す為だけの文章として感情の赴くままに抽象的な表現を多用したものとなっているのはその為だ。昨日の日記を書いた後にも更に多量の睡眠薬を服用し、この世界から消えてしまおうと考えていた。いや、服薬自殺は未遂率が高い事など重々承知だ。単に現実逃避したかっただけなのかも知れない。意識が朦朧とすれば余計な事を考えずに済むし、そのまま眠りに入るだろうから、いわゆる「寝逃げ」をしてしまうのも良いだろうと考えたのだ。
しかし、午後3時頃、私は目覚めてしまった。大量の睡眠薬をアルコールと共に飲んだのでぼんやりとはしていたし、鬱々とした気分は抜けていなかったが、ごく普通に目覚めてしまったのだ。
目覚めて暫くは、この鬱々とした気分のまま何をして良いのか判らず、ただベッドの上で寝転がったり起き上がったりしていた。そして、取り敢えず何かしようという意欲がほんの少し湧いて来たので、ベッドの上に積んであった赤坂真理の本をぱらぱらと斜め読みした。
そうこうしているうちに、彼氏から電話が掛かって来た。彼からの着信時は着メロもイルミネーションの色も変えてあるし、開閉通話も設定している。昨日の事を謝ろうという気持ちもあったのだが、平素から彼からの電話には反射的に出てしまうので、今日も何だか判然としない気分のままではあったが反射的に出てしまった。
昨晩遅く、睡眠薬を多量に服用した後、殆ど意識朦朧とした状態で彼にメールを送っていた。文章は短く、しかも件名や本文も抽象的な表現で差出人名称も変えていたので、ウイルスの類と勘違いされて開かれぬまま削除されるのが関の山だろうと思っていた。それでも良い、どうせ死ぬのだからそんな後味の悪いメールが彼の受信フォルダに残っている方が彼としても気分が悪いだろう、とも考えていた。
ところがメールアドレス自体は変えていなかったので、彼は私からのメールを自動的に私専用のフォルダに振り分ける設定をしていたらしく、ウイルスや「電波女」と勘違いされる事もなく、開いて読んだという事だった。
文面から事情を察したらしく、昨日の日記等を読んだらしい。そうして私が自殺を図ろうとしている事も概ね推測がついたらしく、心配して電話を掛けてきてくれたようだった。
最初は彼の問い掛けに短く答える事しか出来なかった。そして彼が優しい言葉を掛けてくれるうちに、涙が止まらなくなって来た。私はまだ、「死ねなかった」「こんなに迷惑ばかり掛けているんだから私みたいな人間はさっさと消えた方がいいんだ」などと言っていたが、彼が「死のうなんて考えちゃ駄目だよ」「もう昨日の事は水に流したよ」などと言ってくれたので、少しずつ、浄化されていった。彼が私を元気付けようとしてか冗談を言って来たので、思わず笑ってしまった。
笑った。死のうとしていた人間が、笑った。
私は、浄化された。
隔月刊漫画誌『ガロ』に、雨宮処凛の日記が連載されている。彼女は『自殺のコスト』という、自殺に関わる費用について詳述した本を出しているのだが、2002年4月号の連載ページにはその本に関わる記述が少し掲載されている。
それによると、睡眠薬「ハルシオン」の致死量は150万錠、同じく睡眠薬「レンドルミン」の致死量は200万錠だそうだ。薬価に換算するとハルシオンで死ぬには3000万円、レンドルミンだと7940万円も掛かると書いてある。私は公費負担制度を受けているので掛かりつけの精神科で処方されたものを貯めればそんなに金は掛からないだろうが、それにしても凄い金額と量だ。とてもじゃないがそんなに貯められないだろうし、仮に貯められたとしても何百万錠も一気に飲めるはずもない。
私が昨日自殺未遂を図ろうとして飲んだ睡眠薬の中に前述のレンドルミンも含まれていたが、レンドルミンに限定しても飲んだのはせいぜい十錠くらいだ。これではとてもじゃないが死ねない。
『完全自殺マニュアル』にも書いてあるが、自殺には首吊りが一番だ。死体もそんなに汚くないし、苦しみもなく一瞬で意識を失って手っ取り早く死ねる。ロープ等が無くても、hideのようにタオルをドアノブに引っ掛けるだけでも首は吊れる。今すぐにでも死にたいという人は首を吊ろう。死体発見拒絶派は樹海や山奥などに行けば良い。服薬自殺は未遂に終わる事が多いし、最悪の場合「死ぬほど」苦しい地獄の胃洗浄を受ける事にもなりかねない。
そこまで決意の固まっていない自殺志願者には、私のように「寝逃げ」して現実逃避してしまうという方法もお勧めだ。自殺未遂で人生リセットしよう。生きる気力も湧いてくるかもしれない。
コメント