この日記はフィクションです
2002年8月5日8/3から続く鬱々とした気分や自己嫌悪、たびたび遅い来る自殺念慮がまだ消えない。
本当なら今日は診察日だ。しかし診察に行く気力すら無く、ただただ引きこもっていた。
電話だけは割と頻繁に掛かって来たように思う。
電話では明るい声で、明るい話題を中心に話していた筈だ。
私は実生活に於いて、他人に「鬱ですヘルプ」を発する事が滅多に無い。
これは、ひとえに私の「明るく振る舞わなくちゃ」「そんな事人に言ったってウザがられるだけだ」と考える性格に由来するものだと思われる。
もし、私からの「鬱ですヘルプ」を受け取った覚えがあるという方が居たら、その人は可哀想な事に、余程私に頼りにされているのである。
私は絶対的な肯定や否定の表現も避けがちな傾向にある。
「多分」「(仮)」「恐らく」「〜なのだろう」「〜ではないだろうか」「〜だと思う」などなど、私の手によって書かれた文書の随所には、無意識のうちに絶対的表現を避けるような言葉が挿入されている。
これは意図的といえば意図的なものだが、平時から特に意識している訳でもなく、自然と出てしまうものが殆どだ。
何が意図的なのかというと、私の思想(というのもおこがましいが)のベースには「絶対的な善悪は存在しない」というのがまずある。すなわち、善悪とは人間が定めたものであるからして、個々の事象そのものが予め「善悪」を持つものではない、と。
これをさらに拡大解釈してひとまとめにしてしまうと、私は根本的に懐疑主義なのだ。
どんなに真理へ近付こうとしても、永遠に絶対的な解答は得られない。推測はあくまでも推測に過ぎず、しかも我々に許されているのは推測(推論)と実験(経験)のみなのだ、というのが私なりの懐疑主義論だろうか。哲学に詳しい方からは誤りを指摘されてしまいそうだが。
これら一連のニヒリズム的とも取れる態度が、私の精神的疾患と何らかの関係性を持っている可能性は否めない。
具体的にどんな風にだ、と訊かれると返答に詰まってしまうのだが。
一つだけ、ある程度の自信を持って断言出来る事がある。
「全ての事象は、虚構である可能性がある」
これに従うと、この日記も、私も、読んでいる貴方も、ぜんぶ虚構なのかも、ね。
今度診察の時にでも、先生に言ってみようかな。
「私、実在しないかもしれないんです…」
確実に増えるね、薬。あはは。
本当なら今日は診察日だ。しかし診察に行く気力すら無く、ただただ引きこもっていた。
電話だけは割と頻繁に掛かって来たように思う。
電話では明るい声で、明るい話題を中心に話していた筈だ。
私は実生活に於いて、他人に「鬱ですヘルプ」を発する事が滅多に無い。
これは、ひとえに私の「明るく振る舞わなくちゃ」「そんな事人に言ったってウザがられるだけだ」と考える性格に由来するものだと思われる。
もし、私からの「鬱ですヘルプ」を受け取った覚えがあるという方が居たら、その人は可哀想な事に、余程私に頼りにされているのである。
私は絶対的な肯定や否定の表現も避けがちな傾向にある。
「多分」「(仮)」「恐らく」「〜なのだろう」「〜ではないだろうか」「〜だと思う」などなど、私の手によって書かれた文書の随所には、無意識のうちに絶対的表現を避けるような言葉が挿入されている。
これは意図的といえば意図的なものだが、平時から特に意識している訳でもなく、自然と出てしまうものが殆どだ。
何が意図的なのかというと、私の思想(というのもおこがましいが)のベースには「絶対的な善悪は存在しない」というのがまずある。すなわち、善悪とは人間が定めたものであるからして、個々の事象そのものが予め「善悪」を持つものではない、と。
これをさらに拡大解釈してひとまとめにしてしまうと、私は根本的に懐疑主義なのだ。
どんなに真理へ近付こうとしても、永遠に絶対的な解答は得られない。推測はあくまでも推測に過ぎず、しかも我々に許されているのは推測(推論)と実験(経験)のみなのだ、というのが私なりの懐疑主義論だろうか。哲学に詳しい方からは誤りを指摘されてしまいそうだが。
これら一連のニヒリズム的とも取れる態度が、私の精神的疾患と何らかの関係性を持っている可能性は否めない。
具体的にどんな風にだ、と訊かれると返答に詰まってしまうのだが。
一つだけ、ある程度の自信を持って断言出来る事がある。
「全ての事象は、虚構である可能性がある」
これに従うと、この日記も、私も、読んでいる貴方も、ぜんぶ虚構なのかも、ね。
今度診察の時にでも、先生に言ってみようかな。
「私、実在しないかもしれないんです…」
確実に増えるね、薬。あはは。
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