日本語に関する私的な考察
2002年7月24日11時頃に目を覚ました。
昨日分は1日分の睡眠薬を全て夕方のうちに飲んでしまっていて仮眠を摂って真夜中に起きたので、もう眠れないだろうと思っていたのだが、明け方にネット疲れして布団に潜り込むと、短時間ではあるが以外にもナチュラルな睡眠を得ることが出来た。
エキサイトフレンズで知り合った、一つ年下の女の子Aが家に遊びに来る。
約束は3時半。デイケアに行ってもどうせ4時迄なので短時間で早退してしまう事になるし、何だか行く気も起きなかったのでサボる事にした。
部屋を軽く片付ける。PCをいじって少しネットする。一服して薬を飲んで、出掛ける準備をする。
Aは本屋でバイトをしているので、私がバイト先迄迎えに行く事になっていた。
早目に来ても良いとの事だったので、時間に余裕も有ったし2時頃にはAのバイト先に着いていた。
いくら早目と言ってもこんなに早く着くとは思わなかったのだろう、Aのバイト終了時刻は4時だという。
それでも本が有れば幾らでも時間を潰せる私だ。大型書店なので退屈する事も無い。丁度良く椅子まで有る。中村一義の記事が掲載されていた雑誌を読んで、こっそりデジカメで雑誌から中村一義の写真を撮った。うまくレタッチ出来れば携帯の待ち受け画面なんかにも使えるかも知れない。
HTMLタグ辞典最新版を斜め読みしたり、デジカメ関連の雑誌を漁ったり、鶴見済の『無気力製造工場』を未だに読んでいなかったので検索してみたり、コミックコーナーで松本大洋の『ピンポン』を買おうかどうしようか迷ったり『ガロ』系のコミックを漁ったり、とにかく退屈はしなかった。
最近の小説・エッセイ等の新刊で「読みたい」と思えるものが極端に減ってしまった。
多分、本好きを自称する人達の多くがそういった思いを抱えているのではないだろうか。
言葉が飽和しているのだ。
日本語が臨界点に達しているのだ。
ストーリーも文体も、「どこかで見た事が有る」「どこかで聞いたような話」「以前の著作の焼き直しみたい」な感じになって来ている感が否めない。
勿論例外は有るが、これはどの作家・作品にも広く蔓延している靄のようなものだと思う。
書籍だけではない。
音楽も、最近は少しばかりましになって来たようにも思えるが、新譜で「良い」と思える曲が無い。
J−POPの歌詞は言うまでも無く主に日本語で書かれる訳だが、概ね「どこかで聞いたことのある詞」ばかりになって来てしまっている感がある。
メロディーラインやアレンジにしても、なかなか惹かれるものがない。音楽もまた、飽和状態にあるのではなかろうか。
社会学者・宮台真司の言葉を借りると、これは「成熟社会化」が進んだ為だそうだ。
しかし宮台氏の著作にそう記されてあったのは2、3年前の話である。私は寧ろ、現代日本は成熟化を通り越して行き場を見失い、新しいステージへと進む道を模索する過渡期的な状況に有るのではないかと考えている。
社会情勢にしてもそうだし、サブカルチャーを含む文化や民度等、全てを統括した上での話だ。
もっとも、「次のステージ」へと辿り着けるかどうかは誰にも断言出来ないだろうし、ましてや私などが日本の未来を予見できよう筈も無い。
書籍を漁っていても少し時間が余ってしまったので、中村一義の携帯ストラップを購入しようと思って昨日オフィシャルHPを見ながら書いておいた振替用紙を郵便局に出しに行く。
郵便局は近かったのですぐにAのバイト先へ戻ると、もうすぐ4時を回るところだった。
Aがバイトの引継ぎを済ませ、家へと向かう。
麦茶と、私の好物であるアボカドを出してあげたがAの口には合わなかったらしく(アボカドは好き嫌いがはっきり分かれる果物なのだ)、結局殆ど私が食べてしまった。
Aに私のHPやこの日記、裏日記、以前作った二冊の本をバックアップしておいた物等を見せてあげる。
Aは、私が本を書いて製本し、手売りや書店での販売、また、今でも近くの図書館に置いて貰っているという話をすると大変興味を示して、自分も趣味で詩を書いているので本を出したいと言った。
私の場合表紙や裏表紙のデザイン・装丁等も全て自分でやったので、実際にどのようにして表紙を作るか実演して見せてあげた。
Aの希望を取り入れ、手持ちの服の中から赤いギンガムチェックのキャミショールワンピースをバックに敷いて、部屋にあった小さなオレンジの熊の人形を中央に置く。
デジカメの設定を調整し、写真を撮ってPCに取り込み、Photoshop6で加工する。
Aは私の一連の作業をとても興味深そうに見ていた。実際に製本する事になったらサポートしてあげる約束をした。
Aが帰った後、メールで自作の詩を少し送って来た。感想を聞かせて欲しいとの事だった。
正直に言ってしまえば、Aの詩はどこにでも刷いて捨てる程ありふれた内容だと思わざるを得なかった。恋愛の内容が中心で、素人臭さが前面に出てしまっている。まぁ文章含め芸術なんて、プロでも無い限りその人のやりたい事をやりたいようにやれば良いのだから、私があれこれ文句を付ける筋合いは全く無いが、「もっとオリジナリティーを出したり、比喩的な表現を使ってみると良いかもよ」等と、素人ではある私だが文章にはある程度の自信は有るつもりなので、一応アドバイスのようなものをメールしておいた。
勉強していない。
大検の本試験間際だというのに。
今日も結局ウェブ巡回とチャットやメール、掲示板への書き込み等ばかりしてしまった。
アメリカが人種のサラダボウルだとしたら、日本は文化のサラダボウルだ。
それは殊に文化に色濃く表れているように思う。
その象徴としての、「日本語」。
漢字。
カタカナ。
ひらがな。
フォーレン・ワード。
Ro-ma-ji.
English.
それらを率直に、悪く言ってしまえば愚直に、でも積極的に取り入れて来て作られて来た、「日本語」。
自分が特別に愛国心の有る人間だとは思わないが、世界で最も難しい言語の一つと言われる日本語を、話し、そしてこうして文字にして綴れる喜び。
そう、もし「日本」の何が一番好きかと訊ねられたら、私は迷わず「日本語」と答えるだろう。
難しくて、曖昧で、日々変化してゆく日本語。
でも、世界中の何処を探しても、こんなに操り甲斐が有って、遊び甲斐の有る言語はそうそう存在しないのでは無かろうか。
こうして、プロなんて所詮夢で終わるかも知れないのだろうが、それでも「書く」事は、私の一生のライフワークとなり続けるだろう。
※今日から名前の横のHPマークを押すと私関連のページへのリンクが貼られたページに飛べるようにしました。裏日記、半休止中のHP等に飛べます。裏日記は掲示板式で、どなたでも書き込み自由です。PCからだと書き込み登録というものが必要だけど、至極簡単なもので固定HNを登録する必要も有りません。裏では素の私が見れると思うので、気が向いたら何か書き込んでやって下さい。タメ口&呼び捨てで応答致します(これは親愛の証なのです:笑)。
昨日分は1日分の睡眠薬を全て夕方のうちに飲んでしまっていて仮眠を摂って真夜中に起きたので、もう眠れないだろうと思っていたのだが、明け方にネット疲れして布団に潜り込むと、短時間ではあるが以外にもナチュラルな睡眠を得ることが出来た。
エキサイトフレンズで知り合った、一つ年下の女の子Aが家に遊びに来る。
約束は3時半。デイケアに行ってもどうせ4時迄なので短時間で早退してしまう事になるし、何だか行く気も起きなかったのでサボる事にした。
部屋を軽く片付ける。PCをいじって少しネットする。一服して薬を飲んで、出掛ける準備をする。
Aは本屋でバイトをしているので、私がバイト先迄迎えに行く事になっていた。
早目に来ても良いとの事だったので、時間に余裕も有ったし2時頃にはAのバイト先に着いていた。
いくら早目と言ってもこんなに早く着くとは思わなかったのだろう、Aのバイト終了時刻は4時だという。
それでも本が有れば幾らでも時間を潰せる私だ。大型書店なので退屈する事も無い。丁度良く椅子まで有る。中村一義の記事が掲載されていた雑誌を読んで、こっそりデジカメで雑誌から中村一義の写真を撮った。うまくレタッチ出来れば携帯の待ち受け画面なんかにも使えるかも知れない。
HTMLタグ辞典最新版を斜め読みしたり、デジカメ関連の雑誌を漁ったり、鶴見済の『無気力製造工場』を未だに読んでいなかったので検索してみたり、コミックコーナーで松本大洋の『ピンポン』を買おうかどうしようか迷ったり『ガロ』系のコミックを漁ったり、とにかく退屈はしなかった。
最近の小説・エッセイ等の新刊で「読みたい」と思えるものが極端に減ってしまった。
多分、本好きを自称する人達の多くがそういった思いを抱えているのではないだろうか。
言葉が飽和しているのだ。
日本語が臨界点に達しているのだ。
ストーリーも文体も、「どこかで見た事が有る」「どこかで聞いたような話」「以前の著作の焼き直しみたい」な感じになって来ている感が否めない。
勿論例外は有るが、これはどの作家・作品にも広く蔓延している靄のようなものだと思う。
書籍だけではない。
音楽も、最近は少しばかりましになって来たようにも思えるが、新譜で「良い」と思える曲が無い。
J−POPの歌詞は言うまでも無く主に日本語で書かれる訳だが、概ね「どこかで聞いたことのある詞」ばかりになって来てしまっている感がある。
メロディーラインやアレンジにしても、なかなか惹かれるものがない。音楽もまた、飽和状態にあるのではなかろうか。
社会学者・宮台真司の言葉を借りると、これは「成熟社会化」が進んだ為だそうだ。
しかし宮台氏の著作にそう記されてあったのは2、3年前の話である。私は寧ろ、現代日本は成熟化を通り越して行き場を見失い、新しいステージへと進む道を模索する過渡期的な状況に有るのではないかと考えている。
社会情勢にしてもそうだし、サブカルチャーを含む文化や民度等、全てを統括した上での話だ。
もっとも、「次のステージ」へと辿り着けるかどうかは誰にも断言出来ないだろうし、ましてや私などが日本の未来を予見できよう筈も無い。
書籍を漁っていても少し時間が余ってしまったので、中村一義の携帯ストラップを購入しようと思って昨日オフィシャルHPを見ながら書いておいた振替用紙を郵便局に出しに行く。
郵便局は近かったのですぐにAのバイト先へ戻ると、もうすぐ4時を回るところだった。
Aがバイトの引継ぎを済ませ、家へと向かう。
麦茶と、私の好物であるアボカドを出してあげたがAの口には合わなかったらしく(アボカドは好き嫌いがはっきり分かれる果物なのだ)、結局殆ど私が食べてしまった。
Aに私のHPやこの日記、裏日記、以前作った二冊の本をバックアップしておいた物等を見せてあげる。
Aは、私が本を書いて製本し、手売りや書店での販売、また、今でも近くの図書館に置いて貰っているという話をすると大変興味を示して、自分も趣味で詩を書いているので本を出したいと言った。
私の場合表紙や裏表紙のデザイン・装丁等も全て自分でやったので、実際にどのようにして表紙を作るか実演して見せてあげた。
Aの希望を取り入れ、手持ちの服の中から赤いギンガムチェックのキャミショールワンピースをバックに敷いて、部屋にあった小さなオレンジの熊の人形を中央に置く。
デジカメの設定を調整し、写真を撮ってPCに取り込み、Photoshop6で加工する。
Aは私の一連の作業をとても興味深そうに見ていた。実際に製本する事になったらサポートしてあげる約束をした。
Aが帰った後、メールで自作の詩を少し送って来た。感想を聞かせて欲しいとの事だった。
正直に言ってしまえば、Aの詩はどこにでも刷いて捨てる程ありふれた内容だと思わざるを得なかった。恋愛の内容が中心で、素人臭さが前面に出てしまっている。まぁ文章含め芸術なんて、プロでも無い限りその人のやりたい事をやりたいようにやれば良いのだから、私があれこれ文句を付ける筋合いは全く無いが、「もっとオリジナリティーを出したり、比喩的な表現を使ってみると良いかもよ」等と、素人ではある私だが文章にはある程度の自信は有るつもりなので、一応アドバイスのようなものをメールしておいた。
勉強していない。
大検の本試験間際だというのに。
今日も結局ウェブ巡回とチャットやメール、掲示板への書き込み等ばかりしてしまった。
アメリカが人種のサラダボウルだとしたら、日本は文化のサラダボウルだ。
それは殊に文化に色濃く表れているように思う。
その象徴としての、「日本語」。
漢字。
カタカナ。
ひらがな。
フォーレン・ワード。
Ro-ma-ji.
English.
それらを率直に、悪く言ってしまえば愚直に、でも積極的に取り入れて来て作られて来た、「日本語」。
自分が特別に愛国心の有る人間だとは思わないが、世界で最も難しい言語の一つと言われる日本語を、話し、そしてこうして文字にして綴れる喜び。
そう、もし「日本」の何が一番好きかと訊ねられたら、私は迷わず「日本語」と答えるだろう。
難しくて、曖昧で、日々変化してゆく日本語。
でも、世界中の何処を探しても、こんなに操り甲斐が有って、遊び甲斐の有る言語はそうそう存在しないのでは無かろうか。
こうして、プロなんて所詮夢で終わるかも知れないのだろうが、それでも「書く」事は、私の一生のライフワークとなり続けるだろう。
※今日から名前の横のHPマークを押すと私関連のページへのリンクが貼られたページに飛べるようにしました。裏日記、半休止中のHP等に飛べます。裏日記は掲示板式で、どなたでも書き込み自由です。PCからだと書き込み登録というものが必要だけど、至極簡単なもので固定HNを登録する必要も有りません。裏では素の私が見れると思うので、気が向いたら何か書き込んでやって下さい。タメ口&呼び捨てで応答致します(これは親愛の証なのです:笑)。
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